Dear ルキ

どこかのあなたへ

水のように

前略

 

昨日、久しぶりに本を買いました。

読書を趣味にしているといっても、そのほとんどを図書館に頼っている身のため、実は書店に対しては若干の後ろめたさをいつも持っています。そんな私が、これまた古本ですが購入したのが宮本輝氏の『錦繍』。今回で三回目の購入になるでしょうか。

 

何度も読み返したくなる本というのはいくつかありますが、実際に何度も買っている本となるとこれくらいかもしれません。それなのに、必ず手元に置いておくわけではなく、さらっと手放してしまえるというのもまた、この本がもつ不思議な力なのかもしれません。

 

三度目にして改めて気がついたのですが、私がこの本を好きな理由の一つが手紙形式ということにあるのは決定的でしょう。そもそも手紙を書くという行為がまだそれほど珍しいことではなかったのは、私が小学生くらいまでの時だったと思います。それ以降は携帯電話の普及でメールが一般的になり、このタイムラグを要する手紙文化、手紙行為は急激に廃れました。

タイムラグ。「すぐ」ではない気持ちの表し方、伝え方の手紙形式によさを感じるのはなぜなのでしょう。

それはたぶん、本当のことは時間をかけなければわからないから。見えてこないから。

私たちはやはり少し急ぎすぎているように思います。そして答えはもっと先に用意されていると思えば、許せることももっと増えそうな気もしないでしょうか。それくらい、私は「今」の喜怒哀楽を短絡的に表現し、相手の身になって編集することも再構成することもなく、感情を短文で投げつけるような日々を送っているようにも感じてしまうのです。

 

とても漠然としたお話をしてしまいました。

今日も最後に何かお支払いできればと思うのですが、それこそ投げつけるようですが、私がこの本で引っかかった言葉をお伝えさせてください。

それは文中に出てきた「男女の交わり」という言葉です。男女が交わることは深い関係があることを意味しますよね。SEXという行為を「交わる」と表現したその感性に、なぜだかひれ伏したいような気持ちになったのです。

人は交わることで親しくなるのです。なんだかとても流動的な、私たち自身がとてもとろみのある水のような存在に思えたのです。

水のようでありたいと願います。

 

かしこ

 

 

 

 

満ち足りた一瞬を求めて

ルキさま

 

オリンピックがはじまったようですが、ルキさんの中での関心度はいかほどのものでしょうか?私の家には相変わらずテレビがないため、貴重な自国開催の祭典もどこ吹く風で、きっと気がついたら閉会式をYahoo!ニュースで知るという感じで終わりそうです。

こんなんでは、すぐに年をとってしまいそうですが、こんな感じだからこそ地方移住ができたような気もするのです。そもそも移住の経緯については詳しく話していませんでしたが、ルキさんはそのあたり興味あるでしょうか?

人によっては色々と情報収集をして、何年もかけて移住に踏み出すという人もいるようですが、私たちは夫婦二人、これといった財産もなく、守るものもないため(若干、私の実家方面ではわちゃわちゃありましたが)軽い気持ちでこちらに引越してました。といっても夫は十年以上務めた会社を辞め、新たな職場を探したわけですから大きなことだったのでしょうが。

ただ最近でこそコロナで「移住移住」と騒がれていますが、昔から住む場所を大きく変えるというのはたくさんの人がやってきたことなんですよね。それこそ何の情報もない中、小さな子を連れ、果ては食や住のあてもない中、私たちの祖先は生きる場所を求めてさすらっていたかと思うと、今日を過ごすということへの己の怠惰さに恥ずかしくなります。

だって最近の私は、9時起床の10時朝ごはん、14時昼ごはん、20時夕ご飯の1時就寝で労働もせずただだらだらと過ごしているのですから!

これは35歳、働き盛りの女性が過ごしていい日々ではありません。きっと後でつけがくるのでしょう。怖い・・・

ただその一方で、生産的なこと、一般的によしとされていることをしていなくても、心安らかに過ごせる自分でいたいと願ってはいるのです。それは時々は成功しています。ほんの数分、いや数十秒かもしれませんが、満ち足りた気持ちでただ在ることができている時、私はもしかしたら一番幸せかもしれません。仏様やそれに近い人々はこれが長く続いているのかなと思うと、信仰の偉大さに触れたような気にもなります。

 

今日もまた取り留めもないことで終わりそうです。ただ対価だけはしっかりとお支払いさせて頂こうと思います。

これは以前に読んだ、『暇と退屈の倫理学』という本で書かれていたことですが、世に言う「一瞬」とは、正確には1秒を1/18にした時間らしいです。それ以上短くなると人は時を認識できないということなのですが、むしろ私たちは1秒を18で割った時間を捉えることができているのかと驚きの方が強くありませんか。

一瞬、一瞬、一瞬

そう考えると、たった十秒でも完璧な幸福に包まれることができた自分に奇跡を感じたりもします。ハードルの低い幸せでしょうかね。

 

 

 

 

 

引越しました

ルキさま

 

ご無沙汰しております。しばらくお会いできていませんが、お元気でしょうか。

突然ですが、生まれ育った東京を離れ35歳にして夫と二人で千葉県南房総市に移住することになりました。といってもこのお手紙を書いている時点で、すでに引っ越してからちょうど一か月がたっています。

まさか自分が何の縁もない土地に、というか家族がたっぷりいる地元を離れるなんて思ってもいませんでしたが、これも夫と結婚したことによる運命の流れのひとつなのでしょう。

引越す前は「新しい人生がはじまる!」と、実は密かに舞い上がっていた面もあるのですが、今のところそれは半分当たっていて、半分はずれています。

前半の方はまず、当たり前ですが環境の変化です。具体的に言うと「緑」。ちょうど田植えが終わった時期に越してきたのですが、風に揺れ、波のようにうねる稲穂というのを初めて見て、心の底から幸せを感じました。お米というのはとても爽やかな姿形で育つものなのですね。

また寝室の窓からは山が見え、リビングの窓からは内房の海、その先に富士山が小さくですが、存在感をもってそのフォルムを主張しています。もちろん人の声はほとんど聞こえず、朝から夕暮れまでさまざまな鳥の鳴き声がしているのです。

こう書くと「どんな田舎に引っ込んだんだ!」と心配するかもしれませんが、そもそも我が家は素敵な古民家どころか一軒家でもなく、2DKの小さなアパート暮らしなんです。スーパーも百均も徒歩10分以内で、こじんまりとした町暮らしです。

とにかく自分の体が、心が?思っていたよりこの自然をよろこんでいるのを実感します。長くなってしまったので、後半の「半分はずれ」はまたの機会にお話しさせてください。

それでは尻切れになりますが、最後まで読んでいただいたお礼として最近読んだ本『ホモ・サピエンス』から知りえた知識を対価としてお支払いします。いきなりなんだ!と思うでしょうが、私の唯一の趣味とも言える読書から、せめてルキさんに何かお返しできないかと思い、今後はお手紙の最後に私なりの読書の成果を披露させてもらいますね。

それは私たちの総称「サピエンス」とは、「賢い」という意味だということです。何をもって私たちは自らのことを賢いなどと名付けたのでしょうか。少なくとも私個人はまったくサピエンスではありません。